ブログ「沖縄人が東京に住むと、」の記事を書いている「ヒロヒロ」と申します。
このブログは、東京生活18年以上の沖縄人の視点から、沖縄への移住や観光について、役にたつ情報を書いております。
わたしは1981年生まれで、妻と3匹のチワワにかこまれながら暮らしているのですが、実家は沖縄本島の宜野湾市にあり、3人兄弟の長男です。
沖縄人でありながら、水泳が得意でバタフライもできるし、ダイビングのライセンスまで持っていて、思い出にのこっているダイビングスポットは、座間味島、タイのプーケット島とピピ島、ハワイのオアフ島です。
こう見えても、じつは方言があまりしゃべれないので、今では標準語がうまいと言われたり、
沖縄料理をつくるのは好きですが、ヤギ汁はまだ食べたことがないし、イラブー汁(ウミヘビ)も見た目がグロすぎて、とても口にはできません。
音楽はまるでダメで、三線もまったく弾けないのですが、生活リズムは意外としっかりしてて、時間をしっかり守る子です。
好きな言葉はとくにないのですが、「
そもそもなぜ沖縄から出てきたのか?
高校生のときになんとなく、「将来は手に職をもちたい」と考えていたのですが、よく周りのおとなからは、「沖縄で学ぶよりも1度は県外に出たほうが絶対に良い!」といわれてました。
沖縄では、こういう話がけっこう多くて、わたしも「じゃあ、、、とりあえず沖縄から離れてみるさぁ」って感じで、4、5年ぐらい島からはなれたら、また沖縄に戻ろうって考えていたんです。
これもよく言われるんですけど、沖縄の人って島からはなれたとしても、すぐに引き返す人がおおいんですよ。
当時のわたしも島をでるのは、せいぜい長くても5年ぐらいと決めていたので、最初は東京ではなく、九州か関西にいって適当に勉強してれば、沖縄ですぐに仕事は見つかるだろうから、「楽で良いや!」って思ってました。
東京に興味がなかったわけではありませんが、「東京=怖い・人が冷たい」みたいなイメージだったんで、とても自分が東京になじむ気がしなくて、だったら、九州か関西が良いかもって思っていたんです。
そんな甘い考えで島を出ることを見抜いていのは乳でした。 父でした。
「県外に出るなら東京にしなさい!!」まさかのひと言ですよ!
べつに怒っていた訳ではないんですけど、父も昔は東京に住んでいた時期があって、息子がもしも島を出るというのなら、絶対に東京に行かせようと決めていたそうなんです。
そして、父からこんな事も言われました。
「日本の首都という所がどんな所なのか、そこには全国から色々な人が集まってくるし、世界の名だたる都市とも肩を並べている都市が日本にあること、そして、日本の中にある沖縄がどう見られているのか、自分の目で見て、体験して、色々なことを考えてきなさい。」
(ちょっと美化してますけど、だいたい合ってます。笑)
こんなことを言われたら、「もう東京に行くしかないでしょう!」ってな感じで、今も東京に住みつづけているのです。
まだ沖縄には帰らないの?
たまに帰省はしますが、完全に沖縄に引き返すのは、もうすこし後でもいいと考えています。
両親や友人たちからは、「もう良いんじゃない?そろそろ戻ってきても、、、」みたいなことも言われますが、正直いうと沖縄の給料の低さとかを考えると、もうちょっと東京にいても良いと思っています。
どれぐらい低いのかといいますと、沖縄では30代で正社員だったとしても、手取りで20万円以下なんてことも珍しくはなく、昔から低収入に悩まされつづけている人が本当に多いのです。
だったら沖縄に帰らなくても良いんじゃない?
きっとこう思う人も多いでしょう。ですが、沖縄はわたしを育ててくれた島なんですよ。
どうです?こんな島って素敵じゃないですか?
日本中さがしても沖縄にしかないんですよ!
もしも沖縄で育ってなかったら、べつの場所でずっと暮らしていたのかも知れませんけど、沖縄で育ったもんだから、もはやその呪縛からは抜け出せないんです。
だから沖縄の移住ブログを書いてます!
わたしが、いずれ沖縄に戻りたいって思うのは、ごく自然なことだと思うのですが、沖縄で育ったことがない人でも、毎年たくさんの人が移住しているんですよ!
でも実際には、沖縄から去っていく人が多いということを知ったときは、とても悲しい気持ちになりました。
いくら沖縄が日本とはいっても、文化や習慣はぜんぜん違いますので、時間にルーズな人が多いとか、人間関係の濃さだったり、人によっては合う合わないがあるのかも知れませんが、
それよりも大きな理由としては、平均年収が全国で最下位だということです。
それでも、移住してくる人の中には、低収入について知っているにもかかわらず、やっぱり将来に対する不安から、去っていく人もいるのです。
だからもっと沖縄の色々なことを伝えたいからブログを書いてます。
観光地の宣伝はたくさんあっても、文化や習慣にかんする情報って少ないですし、沖縄人の日常的な考え方とか、もっと知って欲しいことってまだまだあります。
いずれは沖縄に戻るつもりでいるのですが、なんだか不安で、今の沖縄がどうなっているのか分からないことも多いんです。
それはまるで、はじめて東京に住んだときの、なんとも言えない不安と期待がものすごく入り混じった感情が、わたしは沖縄に対してあるのです。
しかも今なんて、実家に帰省するときは、沖縄のガイドブックを買うんですよ。(笑)
地元なのに変ですよね?でも、それぐらい今と昔では沖縄も変化しているので、つねに沖縄でおこっていることに目をむけて記事を書いています。
どうしたらこんな大人に育つのか?
人は育った環境によって、いろいろな考えをもつことになると思うのですが、わたしの書いたブログの記事というのは、当然これまでのわたしの人生観が大きな影響をあたえています。
そこで、わたしがどういった人生を歩んできたのかを知ることで、「なるほど!」って納得すると思うので、むかし沖縄で育ったときのことを振り返ってみます。
小学生から中学生はボーイスカウトにハマる
小学生のころは、成績はふつう、運動もふつう、いじめられっ子でも、いじめっ子でもなく、学級委員とか無理、
そろばん、書道、野球、バスケ、サッカー、だいたい1年でやめちゃってます。なーんにも続かない子供でした。
そんなわたしを見かねたのか、小学校4年生のときに、母がボーイスカウトに連れて行ったんですよ。
最初は、あの制服を見ただけで「恥かしい、、、無理無理無理無理」って思ったんで、ずっとわたしは私服で活動していたんですが、人間って不思議なもので、1人だけ私服ってことの方が恥かしくなってくるんですよね。
そしたらいつの間にか、ナイフで木を削って火をおこしたり、ロープをつかってテントをたてて、そこに泊まったりして、非日常的なことに興奮してきて、そこから中学3年まで5年間ボーイスカウトをつづけるのです。
そしてこのボーイスカウトの経験は、わたしの人生において重要なできごとの1つだと思っていて、自分がやってみたいと思ったことを、今でもすぐ行動にうつせるようになったのは、ここから始まっていくのです。
中学生でバイトしてお金を稼いでいた!
今でもハッキリと覚えているのですが、中学2年の夏休みに、とつぜん仲の良かった友だちから「おまつりで屋台のバイトをしないか?」と誘いを受けました。
「楽しそう!!!!!やる!やる!やる!」なんにも考えずに即決したのですが、べつにその友だちに屋台をやっている知り合いがいるワケではなくて、「あした2人で探しに行こう!」って感じだったのです。
普通だったら、ここであきらめると思うんですけど、もうすでにボーイスカウトの経験で、怖いもの知らずでしたから、本当に次の日に友だちと、宜野湾市の「はごろもまつり」の準備をしている会場にいったんです。
そしたら、まぁーみごとに断られること、断られること、20件ぐらい屋台の人に雇ってもらえないか聞いて回ったんです。
そしたら、気の良さそうな家族がやっている屋台があって、やっとそこで1日5000円で雇ってもらえることになったんです。(安っ!)
もちろん親には内緒にして、普通におまつりに遊びに行くフリをしていったんですけど、ヘトヘトになって家に帰ったら、そりゃ汗だくですし、ソース臭いし、速攻でバレて説教ですよ。(笑)
べつに家が貧乏ってワケではなかったのですが、どうせ2日間しかないおまつりだし、親も最終的には、しょうがないと思ったみたいで、次の日は車で会場まで連れて行ってくれたんですよ。
それに味をしめたわたしは、その同じ年の夏に沖縄市の「全島エイサーまつり」でもバイトすることになるんですけどね。
もしよかったらこちらをご覧ください。

高校生でさらにエスカレート!
高校生になっても、あいかわらず勉強も部活もふつうでしたし、夏になれば、また屋台のバイトをするっていうルーティンが完全にできあがっていて、いわゆる青春って感じの高校生活でした。
親も屋台のバイトは許してましたが、それ以外のバイトは勉強に支障がでるから、絶対にゆるしてもらえなかったんです。
でもそんなルールなんて、わたしが守るわけないじゃないですか。(←おい)
高校生になってさらに行動がエスカレートしていって、屋台のバイトでためたお金で、こっそり原付バイクの免許をとって、友だちから格安でスクーターを買ったんですけど、そんなこと親にいったら絶対に怒られるから、家からだいぶ離れたサトウキビ畑に隠してたんですよ。(笑)
でも、ガソリン代とかも地味にかかるし、屋台のバイトでは安定した収入にはならないし、昼間バイトするのは絶対に無理だし、土日に遊びに行くふりをしてバイトしても限界があると思ったわたしは、深夜のコンビニに目をつけたんですよ。
というのも、親はほぼ毎日22時までには寝るから、土曜日の深夜から日曜日の早朝までなら、家をこっそり抜け出せると確信したんです。
(わたしの部屋はベランダとつながっていて、玄関までいかなくても外にでれたんです。)
でも、そんな都合の良いバイトなんて、みつからないと思ったんですけど、あったんですよ!(笑)
だがここで大問題が発生します。
そもそも18歳以上じゃないと、深夜のバイトはできなかったので、わたしは履歴書に「18歳」と嘘を書いてたんですね。(ほんとは17歳だった。←コラッ)
見た目はおっさんでしたので、全然そこは疑われなかったのですが、バイトする初日までに免許証のコピーを持ってくるように言われたんです。
まさかそんなこと言われるなんて、思ってもみなかったんで、もう正直にあやまろうかと思ったんですが、ここで悪魔がささやいたんですよ。
「どうにか偽造できないかな?」
ほんとにバカヤローですね、良い子は絶対にマネしちゃいけませんよ!!
当時わたしは、昭和56年生まれの17歳でしたので、まず免許証を2枚コピーして、1枚目の昭和56年から「5」という数字だけを切りとり、2枚目の昭和56年の「6」の上に「5」を貼りつけて、それをまたコピーしたんです。
すると、あーら不思議!みごとに昭和55年生まれ(18歳)の免許証のコピーが完成したんです。
それをバイト先に持っていったら、なにごともなく済んで、結局そのコンビニで1年半ぐらい働きましたが、最後まで誰にもバレませんでした。
でも親には、最終的にコピーした免許証いがいは、なにもかもバレちゃいましたが、学校にもちゃんと行っていたし、変な友だちとかもいなかったし、なによりも自分の進むべき進路を決めてましたので、そこまで怒られはしなかったです。
いよいよ東京での生活がスタート!
沖縄でのびのびと育った子が、いよいよ東京という大舞台にたつ日がきたのですが、勉強がキラいだったわたしは、とても大学なんていく気にはなれず、手に職をつけたいという理由から理容師の専門学校に通うのですが、
沖縄でさんざんやりたい放題だったわたしは、働くことに対してまったく抵抗感がなかったので、進学といっしょに床屋さんに就職もしたのです。
いったいどういうことかと言いますと、平日は朝から夕方まで専門学校にいき、学校がおわったら夜まで床屋さんで働いて、学校が休みになる土日は、朝から夜までずっと床屋さんで働くのです。
理容師になるためには、通信教育という選択肢もあったのですが、それだと3年もかかってしまうため、できるだけはやく資格をとってお金を稼ぎたかったので、わたしは働いてみたい店、行きたい学校をすべて自分で探したのです。
上京して最初の2年間は超大変だった!
じぶんで決めた学校と職場でしたので、とりあえず学校を卒業するまでの2年間は、勉強が8割、仕事が2割ぐらいのつもりだったのですが、フタをあけてみたら超大変な2年間でした。
まず学校は、都内でも1、2を争うほど校則がきびしい学校で、あいさつ、そうじ、時間厳守も、いっぱん常識をあきらかに超えていて、まるで刑務所の受刑者か、どこかの国の軍隊のようでした。
極めつけは理容師の専門学校なのに、長い髪は禁止、髪を染めるのも禁止、すこし派手な服装も禁止などなど、資格だけ取れればイイヤと思っていたわたしは、クラスでも問題児あつかいされてしまうのでした。
それとは反対に、就職先はみんな良い人で、18歳で入社してきたわたしを温かく歓迎してくれたんです。
とはいかず、どんな職場にもいると思うんですけど、1人だけ本当に嫌な先輩がいたんですよね。(そいつ以外の人は、ほんとうにみんな良い人で、今でも連絡をとったりしてますよ)
それにいくら18歳とはいえ、社会人になったので、今までのバイトとは、全然ちがう社会人のキビしさをたたきこまれるのでした。
20歳でネットワービジネスの餌食に!
地獄のような専門学校をやっと卒業したわたしは、ぶじに理容師の国家資格をとり、いよいよ本格的に職人の道に進むのですが、
資格をとったからといっても、すぐに髪の毛が切れるわけでもなく、技術をみがくために2年か3年は、アシスタントとして修業するので、とうぜん給料は低いままです。
すると、わたしはまた空いた時間でなにか稼げることはないか探すのです。
そこで出会ったのが、ネットワークビジネスってやつで、今でもニュースキンとかアムウェイとかが有名ですが、当時は、その2社よりも画期的だと言われていた、とある会社にわたしは入会するのでした。
もうお分かりだと思うので、ネットワークビジネスのくわしい解説はしませんが、さいしょは少し抵抗があったものの、すぐに消費者金融で50万円を借り、その会社の化粧品とかを購入し、知り合いの勧誘をつぎつぎに始めたのです。
ここで普通なら、そうかんたんに上手くはいかないのですが、始めて1ヶ月で3人の会員を集めたわたしは、これは凄いビジネスだ!と本気で思っていたのです。
だがしかし!
わたしの紹介で会員になったうちの1人が、辞めると言い出してから急展開をむかえます。
その人から、「見せたいモノがあるから来て」と言われ、連れて行かれたのがネットカフェでした。そこで自分が入会した会社の被害者の会みたいな掲示板を見せられたのです。
今でこそ、スマホでなんでも調べられる時代ですが、当時は、2000年で「Windows XP」もまだ発売されていませんでしたし、携帯電話もガラケーしかなくて、やっとカメラ機能が付いたばかりだったし、
ウィキペディアもAmazonもやっとサービスを開始したばかりで、世間では、まだまだインターネットがそこまで浸透していなかった時代だったんですよ。
それにもかかわらず、その被害者の会みたいな書き込みは凄いたくさんあって、どうせ嘘だろうと思っていたのですが、読んでいくと、会員しか知らない情報とか、商品名、売上トップの実名、セミナーの内容など、すべてにおいて一致したのです。
そういえば、なんとなく普通の人とはちがうテンションの高さだったり、勧誘できない人はどこかに連れて行かれていたので、今思えばそうとう変だと思うのですが、
ネットに書かれていた被害者の人たちの書き込みをさらに読んでいくと、「洗脳」「恐喝」「ヤミ金」「風俗」などのキーワードがいくつも出てきて、「あーこのままだとヤバイな」と直感でさっしましたね。(いや気づくの遅すぎだろ!)
やめるときも相当しつこかったし、わたしは携帯の番号を変えただけで済みましたが、中には職場をかえる人もいたので、わたしはとんでもないことをしてしまったと、強く後悔したのでした。
しかもその会社は、わたしが辞めて2年後に、あっけなく倒産したのです。(社名は言えません。ゴメンナサイ)
ネットワークビジネスで失ったモノの大きさ
たったの2ヶ月あまりで、ネットワークビジネスの会員を解約したのですが、そのたった2ヶ月で勧誘した友人や知人とは、その後、ほぼ全ての人と連絡がとれなくなってしまったのです。
専門学校のときに友だちになった人も、よく行っていた沖縄料理屋で番号交換した知り合いも、みーんな2ヶ月の間に、わたしからの着信やメールは、ほぼ無視をするのでした。
まさか、たった2ヶ月でもというか、1回しか勧誘したことがなかった人でも、まったく連絡できなくなるなんて、思ってもみなかったので、人の信用なんてあっけないようなモノだということを人生で初めて体験したのでした。
自分でまねいたことですので、だれかを悪者にすることはしませんが、それから数年間、東京では、人付き合いが消極的になっていきましたし、今でも変に警戒心をもってしまうクセがついてしまいました。
失ったものだけでなく、消費者金融で借りた50万円も残ってしまいましたし、わたしが勧誘した3人のうち、2人はなんとかクーリングオフで全額もどってきたのですが、わたしともう1人は間に合わず、返済にとても苦労するのでした。
さいわいなことに、1つだけ良かったのは、沖縄にいる親戚や友人、それと働いていた職場の人には、いっさい勧誘をしていなかったので、今でもそのことは知らないと思います。(もしかしたら噂されてたのかも知れませんが)
東京で副業に目覚めていく!
ネットワークビジネスでの失敗をきっかけに、わたしは本業に精を出し、なんとかスタイリストまでは仕事ができるようになっていくのですが、それでも多額の借金は減ってなかったし、だれにも相談ができなかったので、また本業とは別にアルバイトを始めるのです。
副業って、本業がおろそかになってしまうので、賛否両論あるとは思いますが、わたしの場合はどうしても早く借金を返したかったし、だれかに相談したところで、どうにもならないと思ってました。
20代前半で体力もあったし、ほとんど本業に支障はなく、それから数年間は、沖縄料理屋、マンガ喫茶、キャバクラ、運送会社で仕分け作業、などのバイトをしていったのです。
1年半で借金を返済し海外旅行にハマる!
やはり副業のバイトは、即金でお金が入ってきますので、すぐに借金も返済できたのですが、その後もバイトの味をしめてしまったわたしは、副業をつづけていき、貯金も増やしていくのです。
また、ちょうどそのころには、お金もあったので、友だちと初めての海外旅行で、タイのバンコクに行ったのですが、あまりにも楽しくて、2回目の海外旅行では、人生初の1人旅を経験するのです。(22歳の夏でした。)
わたしのパスポート写真↓
そのときに、沖縄にいる両親に心配をかけないように、1人で海外に行くことを話したのですが、
「まさか外国人の彼女ができたんじゃないでしょうね?」
と父が真剣に、なんどもなんども、電話してきて心配していたのが印象的でした。(笑)
とうぜん、外国人の彼女なんてできてませんし、日本人の彼女すらいませんでしたよ。(泣)←涙ふけよ。www
「海外=危険」と思っている人もおおいとは思いますし、じっさい油断は禁物だと思います。ただそれでも、夜とか気をつければ、そこまで危険なことはないと思います。
わたしなんて、タクシーで見知らぬ土地に無理やり連れてこられたり、タイのオカマさんに掘られそうになったり、警察に追っかけられたり、変な味のする卵焼きを食べさせられてハイテンションになったり、水道水でおなか壊したり、、、
やっぱ海外って気をつけないといけませんね。(笑)
しかも、海外旅行にハマってなにを思ったのか、いろいろと人生を考えなおすときが増えていき、本業の床屋を辞めてしまい、その後は職を転々とするのでした。
(そのときに今の妻と出会いうので結果オーライですがwww)
一時は沖縄に引き返そうとしますが、沖縄の手取りの少なさに我に返り、また東京で奮闘する日々をおくるのです。
「せどり」という副業で変化が出てくる!
わたしの副業は、若さゆえに体力にモノをいわせて、ただの「ダブルワーク=副業」って感じだったのですが、さすがに、このまま歳をとっても、それを続けていくことは困難になっていくだろうと思ってました。
すると、株やFXにも手をだしますが、1度も儲かったことはなくて、失敗したら、また貯金をするということを何度かくりかえしたのち、自分にはこれっぽっちも向いていないと学習したのでした。
ちょうど東日本大震災がおこった2011年に、「せどり」というものと出会います。
「せどり」とは、かんたんに言うと、半額セールなどで激安になった商品を買ってきて、それをヤフオクかAmazonで、定価の8割ぐらいで売って利益をえることなんです。
もっと詳しく言うと、中古本を売っている「ブックオフ」ってありますよね?
そのブックオフには、「100円コーナー」がどこの店舗にもあるんですけど、その中には、定価3000円の本とか、絶版になっていてプレミアが付いている本とかもあるんですよ。
それらをスマホの「せどり」アプリをつかって、Amazonの値段と比較して、利益がとれる本だけを買ってきて、Amazonで販売するのです。
ほかにも、いろいろな仕入れ方法とかあるんですけど、それでどのぐらい利益がでるのかと言いますと、わたしの最高利益は1ヶ月で約25万円です。
ちょっと分かりずらいので説明しますと、Amazonでは、2週間に1度のわりあいで口座に入金があります。
この2枚の画像は、4週間分(約1ヶ月)の明細ということになります。
赤い線で囲った金額が、わたしの口座に振り込まれる金額で、合計61万6027円(あくまでも月商)となります。
そこから仕入れ代金とか、経費とかいろいろと掛かってきますので、それを差し引いた利益が、約25万円ということになるのです。
「せどり」がだんだん儲からなくなる!
わたしが、せどりを始めたころは、毎日のようにブックオフに行っては、せっせと仕入れをしていたのですが、だれでも簡単にできるということで、テレビや雑誌でも紹介されるようになってくると、あっという間にライバルが増えていき、
せどり専門の業者まで出てくるようになり、副業でやっている人は厳しい状況になってきたのです。
もちろん今でも頑張っている人はいて、わたしの25万円の利益なんて、実はせどり業界の中では、ショボイ金額なんですよね。
相当がんばらないと無理ですが、月商で100万円を超える人もたくさんいるし、人を雇って組織化する人もいて、もう完全に小さなビジネスの世界なんですよ。
結論からいうと、わたしはもう、そこでは勝てなくなってしまって、せどり界から投げ出されてしまうのです。
しかもブックオフでは、そういったスマホをいじりながら本を探している、“せどり行為”と思われる人は、注意をされるようになり、中には出入り禁止にする店まで出てきたのでした。
さらに追い討ちをかけるように、Amazonが商品の出品者にたいして手数料を値上げしたり、商品の買取サービスまで始める始末だったのです。
そんな困難をのりこえて必死になってがんばる人が、きっと成功していくんでしょうけど、わたしはそこであきらめてしまい、もっと別の方法を試していくのでした。
「せどり」に対して気力がなくなる
せどりには、そもそも中古本だけでなく、CD、DVD、ゲーム、フィギュア、家電など、基本的にAmazonで売っている商品であれば、なんでもできるのです。
そんな中でわたしは、中国から安い商品を仕入れて、Amazonで販売をしようと試すのですが、わたしの目利きが悪いせいで、ことごとく粗悪な物だったり、偽物が届いたりして、ほとんど利益がでませんでした。
そこで今度は、商品をアメリカから仕入れて、日本のAmazonで販売しようとしたのです。
これは思ったよりも上手くいって、少しずつではありますが利益がでていましたので、これはイケると思って商品数を増やしていったのですが、これが悲劇の始まりでした。
わたしが輸入品を仕入れるようになった、2012年11月ごろは円高で「1ドル=80円」前後ぐらいだったのですが、それからわずか半年のあいだに相場が反転し、2013年5月ごろには「1ドル=100円」にまでなってしまったのです。
今までは、1つ8000円で仕入れられた商品が、1つ1万円に高くなるだけでなく、それを日本まで配送してくれる業者までもが為替相場によって、値段がいっきに高くなっていったんですけど、
その日本まで配送してくれ業者は、月末にまとめて請求がくるのですが、日本に商品が到着するまでに早くても1週間から10日はかかるので、その間にも為替はどんどん不利な金額になるんですよ。
すると、1週間前までは利益がとれていた商品が、日本に届くころにはアッという間に、赤字になる商品になってしまって、わずか半年間で約250万円の赤字になってしまうのです。
もちろん、適当に買っていたワケではないですし、在庫数が、10個とか20個ではなくて、数百個あつかってましたので、かんたんにそれぐらいの金額になってしまったんですよ。
誰かのせいにはしたくはないのですが、ほんとタイミングが悪すぎて、今までせどりで稼いで貯金していたのが全てパーになったのです。
そうなると、逆にアメリカで日本の商品を売るほうが利益が出るのですが、当時はアメリカで商品を販売するには、アメリカの年金番号、アメリカ国籍の代表がいる法人、現地の銀行のキャッシュカード取得などなど、いろいろなハードルがあって挫折してしまいました。
(もしかしたら今では簡単かもしれませんけど)
それから輸入品などはあきらめて、また1からいろいろと商品の仕入れ先を開拓しようとしたのですが、1時間あたりに稼げる金額を計算してみたら、アルバイトをした方がお金になるって気がついたんですよね。
そしたもうヤル気もなくなってしまったのです。
情けない話になってしまいましたが、ココであきらめる人とそうでない人の差がでるんでしょうね。
今でもせどりを辞めたことが正しかったのかは分かりませんが、こうしてブログを書こうという気持ちにさせたのは、せどりをやったことがきっかけにもなっているんですよね。
妻と出会いブログを書くことになった
いよいよプロフィールの最終話です。
わたしが転職をくりかえしていて、さらに「せどり」を始めたころに働いていた派遣会社に、入社してきたのが今の妻です。
たまたま席がとなりになって、いろいろと教えていたことがきっかけで付き合うようになったのですが、彼女は付き合った当時は、沖縄にまったく興味もなく、まさか結婚までするとは思ってもみなかったでしょう。
(わたしはそのつもりでしけどね。笑)
付き合って、1年、2年、とたってくるにつれ、しだいに沖縄に興味がわいてきて、今ではゴーヤーチャンプルーも好きでよく作ってくれます。
もし良かったらこちらの記事をご覧ください。↓

すでに付き合う前から、わたしはいろいろな副業をやっていましたが、付き合ってからも辞めるわけもなく、むしろいろいろな副業に手を伸ばしていったのです。(もっともっと収入を増やしたかったので)
まあ結果的には、良いことも悪いことも経験はできたのですが、“結婚”という2文字が見えてきたときに、わたしはこのままでは、家庭をかえりみず副業にぼっとうしてしまう旦那になると思ったのです。
そこで、あらためて原点にかえろうと転職を決意し、それなりに給料の良い会社をえらび、自宅でできるブログを始めたのです。
長くなってしまいましたが、こんな感じで山あり谷ありというか、谷がおおい人生(笑)を歩んできてるわたしも、なんだかんだで今現在にいたります。ではではこの辺で失礼いたしますので、引き続きブログをお楽しみください。
*「沖縄人が東京に住むと、」はGoogle AdSenseを利用しています。
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